帰ろうか帰ろうよ
き‐たく【帰宅】
帰宅とかけまして弁護士ととく
そのこころは
どちらもほーむ(ホーム・法務)が大事でしょう。
皆様新年あけましておめでとうございます。正月をいかがお過ごしでしょうか?
僕は普通に仕事をしております。三が日ずっと。止む終えない事情で。
思い浮かぶ言葉はとにかく「帰宅」。帰りたくてしょうがない。個人事業主だから手当もつかないしね。
正月に当たり前の様に仕事する会社も多くなりましたね。インフラを始めとする一部の公共事業は仕方ないにしても、うちも含めて普通に正月くらい休んだらいいじゃん?って業種も当たり前のように働いている。
基本的に季節の風習もイベントも関心がないのだけど、そのスタンスも宜しくないなって正月になると思う。文化っていうやつは国のアイデンティティとも言える。それを蔑ろにするのは日本人というアイデンティティも蔑ろにするも同様。その結果が今の状態だと考えると、色々と考え直さないといけないな。
葉巻は少し気になる
ニコチン【nicotine/(ドイツ)Nikotin】
タバコの葉に含まれる命名は新大陸原産でポルトガルで愛好されていたタバコを、フランスに持ち帰った外交官ジャン‐ニコにちなむ。 C10H14N2
の一。無色の揮発性の液体で、空気に触れると褐色になる。独特の臭気と味をもち、水に溶けやすい。神経系に作用し、興奮もしくは麻痺 (まひ) させる。猛毒。農業用殺虫剤などに使用。
出典:nicotine/(ドイツ)Nikotin(ニコチン)の意味 - goo国語辞書
ニコチンとかけまして、応援団ととく
そのこころは
どちらもはっぱ(葉っぱ・発破)が決め手でしょう。
ガキンチョというものは大人に憧れて、ついついいけないことに手を染めちゃうもの。
時効だから告白しちゃうけど、私もご多分に漏れず。タバコと未成年飲酒に手を染めていた時期があった。不良ではなかったので、裏で隠れてだけどね。小心者だから万引きなどの犯罪行為も犯しておりませぬ。
幸運だったのは、私の喉とニコチンとの相性があまりよろしく無かったこと。むせるし、冬場の乾燥がそれに加速して喉を痛めつける。おかげ様で早い段階でタバコを止めることが出来ました。
もとより依存気質。いちど中毒にハマってしまったら、精神の弱い私はなかなか抜け出せない。早く止められたと言っても、ニコチン中毒から抜け出すのも苦労したしね。風邪ひいてからの喉の激痛>ニコチンとなったから、上手いことタバコから卒業出来たに過ぎない。
快楽を扱う嗜好品は人間を堕落させる。そしてそれを裏で笑うものがいる。それがむかつくので、酒や女に逃げることだけはしない。それがダメ人間の社会に対する小さな反抗だ。
なんて格好つけたけど、酒もタバコも風俗も行くお金がないだけー。
やわらちゃん見なくなったなぁ
じゅう‐どう〔ジウダウ〕【柔道】
日本古来の柔術諸流派をもとに、明治15年(1882) によって創始された格闘技。心身を鍛練修養し、青少年の教育に貢献することを目的とした。技は、投げ技・固め技・当て身技の3部門から成る。第二次大戦後、スポーツとして世界的に普及。
柔道とかけまして、お鍋の最後ととく
そのこころは
どちらも締めがあるでしょう
こう見えても柔道の黒帯持ってるんですよ。
初段なので実力そのものは大したこと無いのですけどね。履歴書の資格や特技欄にそれを書ける。役に立ったのはそれくらいかな?
話がガラッと変わるけど。学校の部活あるいは体育の柔道の授業中に、毎年4人。過去30年で累計121人もの死者を出しているのだという。被害者は当然中高生。
死因は様々だけど、一言で言えば指導者の問題。ひいては教育プログラムの問題と言っていい。乱取り中(練習試合みたいなもの)の事故もあるし、部活顧問がストレス解消に生徒をひたすら投げ続け、受け身に失敗した生徒が頭を打って亡くなるパターンもある。
もちろん他の競技でも部活中に死者が出ないわけではない。しかし、サッカーや野球を始めとする他の競技では、二度と同じ悲劇を起こさないようにしっかりと事故を検証して指導プログラムを見直している。柔道だけじゃないかな。毎年のように学校で死人を出す競技は。要するに懲りてないということでしょう。
安全面をきちんと配慮してる学校がほとんどではあるでしょう。しかし未だに無茶な精神論が蔓延ってる側面があるのも事実。根性がいけないとは言わないけど、最低限の子供の体に対する配慮は絶対に必要。今振りえれば、学生時代の夏休みの柔道合宿は無茶苦茶だったなぁ。クーラーのないくそ暑い道場の中で水もろくに飲ませてもらえない環境。帰りはフラフラで自転車を漕ぐ体力も残っていなかった。よく倒れなかったものだと自分でも思う。
もともと柔道は礼儀を始めとした青少年の教育を目的としたスポーツだったはず。それがオリンピックのせいかどうか知らないけど、いつの間にか勝つことを主体とした指導になってはいないだろうか?それはそれとして個人の道場や柔道スクールでやってもらったらいい。せめて体育の授業や学校の部活だけは、勝つことより礼儀を重んじる指導をしてもらいたいものだ。極端なこと言うなら受け身以外の技はしなくていい。
アングラ
あ‐ぐら【胡=床/胡=坐】
-
1 (胡坐)両ひざを左右に開き、両足を組んで座ること。こざ。「―を組む」
-
2 貴族の着座する、床の高い台。あごら。
-
3 材木を組んで高い所へ上れるようにつくった足場。
-
「―を結ひあげて」〈
〉
-
-
4 一種の腰掛けで、脚を交差させて折り畳めるようにしたもの。
-
「―どもを召したり」〈
・胡蝶〉
-
あぐらとかけまして、ドククラゲととく
そのこころは
どちらもしびれに注意
冬になると関節もかたくなる。
そうなると、長時間あぐらを組んで座るのもつらくなる。これも年齢の影響だろうか?
高齢化社会ということもあってか、近頃膝の痛みに関する商品をよく目にする。サポーターとかサプリとか。歳を重ねると膝の関節液が少なくなると言うけども、それだけが膝の痛みの原因なのかな?
農作業をしてる親戚を見てると、80代にもかかわらず膝の痛みとは無縁といった感じでピンピンしてる。仕事的に関節に結構負担がかかりそうなものなのに。
高齢者で膝の痛みに悩むもの、悩まないもの。その違いはどこにあるのだろうか?
もしかしたら日頃の座り方に関係するのではなかろうか?
周囲のお年寄りを見てる限りだと、日頃から座布団に正座で過ごしてる人の方が足腰が丈夫な人が多い。いっぽうで椅子に座るのが日常の人は早い段階で膝関節の悩みに見舞われてる印象。あと、トイレも和式の家の家庭は膝が強い気が。
まぁ僕は医者でも体の専門家でもないから、あくまで素人の仮説として適当にあしらってくれたらいいんですけどね。
アングラ
あ‐ぐら【胡=床/胡=坐】
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1 (胡坐)両ひざを左右に開き、両足を組んで座ること。こざ。「―を組む」
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2 貴族の着座する、床の高い台。あごら。
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3 材木を組んで高い所へ上れるようにつくった足場。
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「―を結ひあげて」〈
〉
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4 一種の腰掛けで、脚を交差させて折り畳めるようにしたもの。
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「―どもを召したり」〈
・胡蝶〉
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あぐらとかけまして、ドククラゲととく
そのこころは
どちらもしびれに注意
冬になると関節もかたくなる。
そうなると、長時間あぐらを組んで座るのもつらくなる。これも年齢の影響だろうか?
高齢化社会ということもあってか、近頃膝の痛みに関する商品をよく目にする。サポーターとかサプリとか。歳を重ねると膝の関節液が少なくなると言うけども、それだけが膝の痛みの原因なのかな?
農作業をしてる親戚を見てると、80代にもかかわらず膝の痛みとは無縁といった感じでピンピンしてる。仕事的に関節に結構負担がかかりそうなものなのに。
高齢者で膝の痛みに悩むもの、悩まないもの。その違いはどこにあるのだろうか?
もしかしたら日頃の座り方に関係するのではなかろうか?
周囲のお年寄りを見てる限りだと、日頃から座布団に正座で過ごしてる人の方が足腰が丈夫な人が多い。いっぽうで椅子に座るのが日常の人は早い段階で膝関節の悩みに見舞われてる印象。あと、トイレも和式の家の家庭は膝が強い気が。
まぁ僕は医者でも体の専門家でもないから、あくまで素人の仮説として適当にあしらってくれたらいいんですけどね。
喜怒哀楽
かん‐じょう〔‐ジヤウ〕【感情】
物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。「感情をむきだしにする」「感情に訴える」「感情を抑える」「国民感情を刺激する」
感情とかけまして、悪の組織ととく
そのこころは
どちらも支配されてはいけないでしょう
人はモノではなく感情を買うのだ。
どこかの経営コンサルタントがそんな事を言っていたことをふと思い出す。
例えばお化け屋敷。オバケそのものと言うより、それによって得るであろう”恐怖”にお金を払う。(怖くなければ入らないし)
感情を無視してモノを売って失敗する典型例が、無駄に多機能な家電。確かに便利に越したことはないけど、全部を使いこなせる人はそう多くない。使い方が複雑になることによって、ユーザーの怒りを買ったら売れるものも売れない。
フリーランスしてるくせに商売が下手なんだけど、考えてみれば上手いこと行かない時はクライアントの感情を無視してる時がたしかに多い。この商品を手に入れる事でこんな喜びがある。みたいなセールスを少しもしていない。
自分自身が感情の薄いタイプだから、こういうことに鈍感なのかもしれない。そういう意味ではサイコパスな人間って商売に向かないのかも。
てことは、俺ってサイコパスなの?
謙虚は美徳と言うけども
けん‐そん【謙遜】
- 「(小サナ花ハ)きわめて―な、有るか無きかのものである」〈 ・病室の花〉
謙遜とかけまして、坊主の雑巾がけととく
そのこころは
どちらも前に出ないでしょう
謙遜と卑屈の境目は果たしてどこか?
謙虚が行き過ぎると劣等感になってしまう。劣等感がひどくなると、元来当たり前に出来ていたことすら出来なくなってしまう。その極みが鬱なのかもしれない。そういう意味では、自信過剰もよろしくないが、卑下が過剰になることはもっといけない。
この卑屈感というのは、もしかしたら戦後教育の賜物なのではなかろうか?
例えば私の住んでいる広島県。8月6日原爆の平和式典。参加者のスピーチでよく聞かされるフレーズの一つに「私達は二度と同じ過ちをおかしません」というのがある。これってよくよく考えるとおかしいと思いません?
太平洋戦争に関してはともかく、原爆投下に限れば我々広島県民は完全なる被害者だ。別に広島や長崎の市民が率先して戦争をしてるわけでもないのだ。
例えるならば、殺人事件の裁判で被害者の遺族が「私達は二度と同じ過ちを犯しません」なんて答弁するのに等しい違和感がある。
もちろん、第二次世界大戦全般に関して言えば我々日本人も大いに反省すべき点はあるでしょう。二度と愚かな戦争をおかさない努力をする義務もある。
ただし、日本人だけが悪いことをしたわけでもない。そもそも当時アフリカや中東、アジアに戦争を仕掛けて植民地化してきたのは他でもない欧米諸国だ。やってることのタチの悪さで言えば向こうの方がよほど酷いと言っていい。日本だけが悪く言われる謂れはないのだ。二度と同じ過ちをおかしません。は、国連の常任理事国を始めとする先進国こそ言わなければいけないことでしょう。
謙虚は美徳なんて考えも、もしかしたらGHQに押し付けられた考え方かもしれない。謙虚という名の抑圧によって出た歪が、昨今の迷惑ユーチューバーとなって現れているのでは?なんて言ったら妄想が過ぎるかしら